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本日は今が旬の食べ物・食材をご紹介致します。

お早うございます。

本日は今が旬の食べ物・食材をご紹介致します。

昔に比べ、随分、食べ物の季節感が

無くなってきている様に思います。

でも、やはり、その季節の

旬の食べ物は三拍子揃っているように思えます。

安い・美味しい・心が豊かになる!

私の子供の頃は、季節の旬が食べられる事が

とても楽しみでした!

今が旬をテーマに調べてみました。

どうぞ、お楽しみ下さいませ!

 
さくらんぼ4月〜5
サクランボまたは桜桃は、バラ科サクラ属サクラ亜属の果樹であるミザクラの果実。
食用。木を桜桃、果実をサクランボと呼び分ける場合もあるそうです。
生産者は桜桃と呼ぶことが多く、商品化され店頭に並んだものはサクランボと
呼ばれます。サクランボは、桜の実という意味の「桜の坊」の「の」が撥音便となり、
語末が短母音化したと考えられているそうです。花を鑑賞する
品種のサクラでは、実は大きくならないようです。果樹であるミザクラには
東洋系とヨーロッパ系とがあり、日本で栽培される大半はヨーロッパ系である。
果実は丸みを帯びた赤い実が多く、中に種子が1
つあるそうです。品種によって
黄白色や葡萄の巨峰のように赤黒い色で紫がかったものもあります。
生食用にされるのは主にセイヨウミザクラ (Prunus avium)
の実であり、
日本で食されるサクランボもほとんどがこれに属する。
その他調理用に酸味が強いスミミザクラ (Prunus cerasus)
の実もよく使われています。ある種の桜桃は異なる種類で受精しなければ
果実が実らない自家不和合性があり、他家受粉が必要であるそうです。
また、品種間に相性があり、異なる品種なら何でも
良いというわけではないようです。
例えば、佐藤錦ではナポレオンとの相性がよい。
他に、自家結実する品種もあるそうです。一般には「初夏の味覚」であり、
サクランボや桜の実は夏の季語ですが、近年では温室栽培により
1月初旬の出荷も行われています。正月の初出荷では贈答用として
約30粒程度が入った300グラム詰めで3万円から5万円程度で
取り引きされ赤い宝石と呼ばれることがあるそうです。サクランボは
有史以前から食べられていました。桜桃の一種である甘果桜桃
(セイヨウミザクラ, Prunus avium)はイラン北部から
ヨーロッパ西部にかけて野生していました。また別の品種である
酸果桜桃(スミノミザクラ, Prunus cerasus)の原産地はアジア西部のトルコ辺り。
原産地の推定は、1世紀の古代ローマの博物学者プリニウスが
著書博物誌に書いた説明に基づく。これによると、古代ローマの
執政官ルクッルスが第三次ミトリダテス戦争で黒海南岸のケラソス
(Kerasos
、現在のトルコギレスン(Giresun)近くに駐屯した際、
サクランボの木を見つけ、ローマに持ち帰ったという。
サクランボの木が属するサクラ亜属の学名Cerasus
は、
ケラソスのラテン語表記であるそうです。なお、逆にサクランボにちなんで
町の名が付けられた可能性もあるそうです。ただし、イギリスで青銅器時代の
サクランボの種が発掘されていることから、
19世紀のスイスの植物学者アルフォンス・ド・カンドル (enは、
ルクッルスがコーカサスから持ち帰ったのは、セイヨウミザクラの
一栽培品種だったとの仮説を述べています。
この二品種は黒海沿岸からヨーロッパ諸国へ伝わり、特にイギリス・
フランス・ドイツで普及した。名称がノルマン人によって
シェリーズ(cherise)
となり、イングランドに渡ってシェリー(chery)となり、
英語のcherryになったといわれています。16世紀ごろから
本格的に栽培されるようになり、17世紀にはアメリカ大陸に伝えられました。

一方、中国には昔から華北・華中を中心に、
中国桜桃, Prunus pseudocerasus
)・唐実桜がある。口に含んで
食べることから一名を含桃といい、漢の時代に編纂された
礼記『月令』の仲夏(
旧暦5
月)の条に「是月也,天子乃以雛嘗黍,
羞以含桃,先薦寢廟との記述がある。江戸時代に清から日本に伝えられ、
西日本でわずかに栽培されている。これは、材が家具、彫刻などに使われます。
暖地桜桃とも呼ばれるそうです。「桜桃」という名称は中国から
伝えられたものであるようです。セイヨウミザクラが日本に伝えられたのは
明治初期で、ドイツ人によって北海道に植えられたのが始まりだとされる。
その後、北海道や東北地方に広がり、各地で改良が重ねられました。

とは・・・・?ある特定の食材について、他の時期よりも新鮮で美味しく
食べられる時期。また旬の物はよく市場に出回るため値段も安価になりやすく、
消費者にも嬉しい時期です。出盛り期ともいうそうです。
旬は、次の3
通りの違った意味で使われることがある。
1:季節を先取りするはしりと呼ばれるもの。
2:収穫量がピークに当たる時期。
3
:素材がもっとも美味しい時期である事。

私の子供の頃、サクランボの茎を口の中で、
結べると、キスが上手になるといわれ、みんなで競い合ったような記憶があります。
 

| star-nagoya2 | 07:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
どうぞ、私共、ブログをお楽しみ下さいませ!

おはようございます。
私共のHPで名古屋の雰囲気やホテルの
雰囲気を感じて頂ければ、幸いでございます。
愛知県など、東海地方はかつて、
お城が沢山ございました。
現存するお城!修復、復活したお城、廃城となり、
名残だけをとどめているお城!
どうぞ、私共、ブログをお楽しみ下さいませ!

愛知県下にあるお城の数は、一説によれば、
有名でないお城や既には廃城となった城を含め、
尾張地方318城!西三河地方277城!西三河地方188室!
計783の城があるそうです。


田原城は、三河国渥美郡田原(現在の愛知県田原市田原町巴江)にあった
戦国期から江戸期の城。江戸時代には田原藩1
万2
千石の藩庁であったそうです。
海に面した小さな丘に築かれており、海や水堀に囲まれた城郭の形状から別名を
巴江城という。築城当時は東側から北周りに西側にかけて海に面し、巴型に水堀を
張り巡らせて主郭を守ったそうです。16世紀はじめの戸田氏は渥美郡全域
(現在の田原市から豊橋市の豊川・朝倉川南岸まで)及び知多半島の一部を
領有していました。渥美半島のみならず三河湾の海上支配をもくろみ、
半島の中ほどにあり海に面した田原城を本拠としたそうです。また、戸田氏が
半島内に築城した老津城・大崎城・二連木城はいずれも三河湾または三河湾に
注ぎ込む朝倉川に面しており、戸田氏が海上支配を重視していました。天正18年
(1590年)池田輝政が東三河に入ると、本拠地を吉田城に構え、田原城も城代
として入った伊木忠次によって整備がなされました。現在残る曲輪の配置や石垣などは
基本的にはこの時期か、池田氏の後に入った戸田氏によってなされたものと
考えられています。江戸時代になると田原城の南側に城下町が形成された。
また、17世紀後半ころに田原城の東側の大きな入り江に大規模な干拓が行われ、
海に面していた田原城本丸は陸地にむき出しとなり、現在に至っています。
また、一部の武家屋敷や藩校・成章館などを囲むように外郭も形成されていたそうです。
明治初年に撮影された古写真によると、主郭の壁は海鼠壁となっており、
二ノ丸の櫓は層塔式二階建てのものとなっています。
文明12年(1480年)ころに戸田宗光(全久)によって築城され、戸田氏の
三河湾支配の拠点となった。16世紀になると近隣の戦国大名の拡大に伴って、
はじめは松平氏に属し、さらに今川氏に転じたそうです。天文16年(1547年)、
戸田康光のとき、人質として今川氏の本拠地駿河国に送られる松平氏の嫡男竹千代(
後の徳川家康。康光は義母の父に当たる)を護送する任を受けるも、
寝返って竹千代を今川氏の敵方の織田信秀に送ってしまったため今川義元の
怒りを買い、田原城は今川方の攻撃を受けて落城、城主康光も戦死したそうです。
その後今川氏に属する城代が入るが、桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した
家康によって攻略され、松平氏譜代の本多広孝が城主に入って、東三河の旗頭として
吉田城(豊橋市)を与えられた酒井忠次の指揮下に入ったそうです。
さらに天正18年(1590年)、家康が関東へと移封すると代わって吉田城に入封した
池田輝政の持ち城となり、田原城には重臣筆頭の伊木忠次が城主となって田原に
在城しました。輝政の統治期に、石垣の修築や曲輪の整備などが行われたと考えられています。
江戸時代になると、田原城には三河の他の主な城と同様に譜代大名が置かれ、
1万石そこそこと少ないながらも藩を形成したそうです。はじめ田原戸田家の支族、
戸田尊次が入り、その後寛文4年(1664年)に三宅氏が1万2千石で入封、
そのまま明治維新を迎えるまで200年強支配しました。三宅氏は、現在、
最高裁判所の別名の三宅坂で名を残します。 廃藩置県後の明治5年(1872年)、
他の多くの城と同様に田原城の建築物も取り壊されました。
現在の田原城は石垣を初めとした遺構は多く残りますが、
建物は昭和以降の再建です。また、城地の多くは地域住民の公共的な施設
になっています。内郭は、本丸が三宅氏の家祖である南朝の忠臣児島高徳を祀る
巴江神社になっており、9
月半ばには年に一度の祭りが大々的に行なわれて、
地区住民のシンボルとなっています。この神社は、三宅氏が文化年間に
二ノ丸に建立した社から、魂を移したものです。二ノ丸には二の丸櫓が
再建されていますが、古写真で見ると櫓は下見板張となっており、
過去にあったものとは異なる外見となってしまっています。
郭内は田原市博物館となっているが、1990
年代の博物館建設の際、
施設と通路の再整備のために多くの遺構を崩してしまったことは批判も受けています。
なお、博物館建設以前は町立保育所となっていたそうです。
三ノ丸は護国神社となっており、併せて渡辺崋山・村上範致・岡田虎次郎など
郷土の偉人の顕彰碑が建設されています。そのほか、大手門が再建されていますが、
やや装飾過剰なようである。石垣は16世紀と思われる野面積みのものが
そのまま残っています。石も田原市北部から産出する石灰岩が混ざっていて、
地域性が出ています。城の外郭にも長らく土盛りなどが残っていましたが、
近年の再開発で多くは崩されてしまったそうです。現在でも
田原中部小学校の南側にわずかながら石垣と土盛りが残されています。

アクセス

豊橋鉄道渥美線三河田原駅から北へ徒歩10
(三河田原駅から市営ぐるりんバス中央線で博物館下車すぐですが、
本数が少ないのでダイヤ確認の必要があります。

 

| star-nagoya2 | 07:25 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
樹齢1800年だそうです

皆様、毎日いかがお過ごしでしょうか?
本日はスターナゴヤ、ブログをご覧頂き有難う御座います。
毎日、何かをテーマに設け、
皆様にお届けいたしております。
又、名古屋市内だけでなく、近隣の都道府県、電車や車で数時間範囲の
名所をご紹介致します。
本日は愛知県の隣の県、岐阜県から・・・
樹齢1800年だそうです
どうぞ、お楽しみ下さいませ。

石徹白の大杉は、岐阜県郡上市にある巨大なスギの古木です。
国の特別天然記念物に指定され、白山国立公園内にあります。
白山信仰の修験道(美濃禅定道)沿いにあり、
道標の役割も果たしているそうです。泰澄上人が白山を開山した際、
使用していた杖がこの大杉になったという伝承があるそうです。
樹高24
m、幹囲目通り14 m、樹齢は1,800余年と推定されています。
現在、幹の半分は枯れてしまっているが
、残りの半分は健在だそうです。縄文杉が発見されるまでは、
日本有数のスギの大木であったそうです。1924年(大正13年)129日、
国の天然記念物に指定される(名称は「石徹白のスギ」)。
1957年(昭和32年)72日、国の特別天然記念物に指定されるすぐ
北側には、熊清水とよばれる湧水があるそうです。

国指定の特別天然記念物で岐阜県最大、全国でも有数の巨樹。
白山の麓石徹白のさらに山奥にあり、かなり長い道のりだそうです。
階段を登っていくと、目の前が開けて奥に姿を現した大杉。初めは逆光で
壁のように見えるそうです。その雰囲気のせいか数値よりも大きく見えます。
高齢と厳しい環境のせいか樹勢はよくありませんでしたが、その分威厳があります。
周囲のスギも目通り5mほどありますが、それらを従えているといった貫禄だそうです。

アクセスは郡上市自主運営バス(白鳥地域)、美濃白鳥駅より終点
「上在所」下車。ここより白山登山道で徒歩2時間。 登山道なので、
ある程度の装備は必要。白山中居神社先の白山美濃禅定道(南縦走路)
の登山口には、駐車場と、休憩用の東屋、トイレなどが整備されている。
駐車場から大杉までは、距離で約300 m、標高差で約90 m、その急坂には
、石とコンクリートによる420メートの階段が設けられています。


 

お車の場合は最寄りのICは、東海北陸道の白鳥インターです。

| star-nagoya2 | 07:04 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
一説によれば・・・・

おはようございます。
私共のHPで名古屋の雰囲気やホテルの
雰囲気を感じて頂ければ、幸いでございます。
愛知県など、東海地方はかつて、
お城が沢山ございました。
現存するお城!修復、復活したお城、廃城となり、
名残だけをとどめているお城!
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刈谷城跡歴史散策

愛知県下にあるお城の数は、一説によれば、
有名でないお城や既には廃城となった城を含め、
尾張地方318城!西三河地方277城!
西三河地方188室!計783の城があるそうです。


刈谷城は、三河国碧海郡刈谷(現在の愛知県刈谷市)にあった城。
正しくは「刈屋城」であるが、刈谷市が1950
年(昭和25
年)4月以降に市制施行してから、
「刈谷」という表記がされるようになったそうです。天文2年(1533年)
水野忠政により築城。築城後忠政は本拠地を緒川から刈谷に移しており、
徳川家康生母於大は刈谷城から岡崎の松平広忠に嫁しています。於大は父忠政の死後、
兄水野信元が今川氏を離れ織田氏についた(
織水同盟)ため松平氏を離縁された
後も刈谷城近くの椎の木屋敷で久松氏に再嫁するまでの日を過ごしているそうです。
『三河物語』によると、桶狭間の合戦の項目で「小河より水野四郎右衛門尉
(信元)殿方カラ、浅井六之助(道忠)ヲ使にコサセラレテ」との記述があり、
桶狭間の合戦当時、水野信元は緒川城もしくはその周辺を守備していたか、
あるいは日和見をしていたものと考えられます。 また、『三河物語』の
三河一向一揆の項目では、水野下野守(信元)殿、雁屋(刈谷)より武具にて
佐崎之取出え見舞に御越有。」と記述があるそうです。なお、刈谷は、当初は
「谷」ではなく「屋」を当てられていた。『三河物語』においても
「屋」を当てられています。また、『信長公記』の天正8年(1580年)
8月20日の項目においても「小河かり屋」と「屋」が当てられています。
その他にも、永禄3年(1560年)6月8日付の岡部元信宛の今川氏真判物に
「苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、数多討捕、城内放火、
粉骨所不準于他也」とあり、屋が当てられています。また、上記の判物には
刈谷城主水野藤九郎(信元の弟)と記されているが、藤九郎信近は信元の城代として
刈谷城を守備していたとみるのが妥当であり、独立した城主であったとは
考えがたく今川方の文書から水野藤九郎信近を城主とみなすのは適当でないそうです。
信元は天正3年(1575年)佐久間信盛の讒にあい、信長から武田方への内通を疑われ、
命を受けた家康に殺害されるという非業の最期をとげ、刈谷城は佐久間信盛の
領有となったそうです。後に信盛は信長に追放され、信元の末弟忠重が城主となって
水野氏の領有に復した。忠重、勝成、忠清と5代百年の水野氏の居城を経て、
寛永9年(1632年)に入城、その後久松松平家(1649年)、
稲垣氏3代(1651年)、阿部氏2代(1702年)、本多氏(忠勝系、1710年)、
三浦氏3代(1712年)と頻繁に城主の交代があったそうです。
1747年より土井氏が入封し9代の支配の後、明治4年(1871年)の
廃藩を迎え、城は破却されたそうです。
天文二年(1533)に水野氏が金ヶ小路のほとりに築城しました。
水野氏を最初に、以後水野(分家)、松平(深溝)、松平(久松)、
稲垣、阿部、本多、三浦、土井氏の譜代大名が城主となたそうです。
明治四年の廃藩置県後、刈谷城は政府の所有となり、
城郭の建造物は取り払われたそうです。大正二年大野介蔵に
売却されました。旧城跡を永久に保存することとなったそうです。
昭和11年町から旧城跡を公園にしたいと意見書が出され、
刈谷町に売り渡され、翌年には亀城公園となりました。

昭和十六年(1941)太平洋戦争が勃発、戦争末期には城跡の
高台が高射砲陣地となり、うっそうとしていた大木も切り払われ
、荒れ果てた姿となったそうです。

アクセス

名鉄電車名古屋駅まではスターナゴヤから徒歩12分程度です!
名鉄三河線刈谷市駅下車徒歩15

 

| star-nagoya2 | 07:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
多くの人で賑わうそうです。

何かをテーマに見つけ、取り上げております。
テーマの選択は毎日、適当!ばらばら!思いつきですが・・・
ご覧頂き、(へ〜!そうなんだ!)と感じて頂ければ、嬉しく思います。
スターナゴヤはどこへ移動するのもとても便利です!
JR名古屋駅までは徒歩3分!名鉄名古屋駅及び
近鉄名古屋駅や名鉄バスセンターまで徒歩10分!
名古屋市市営地下鉄までは徒歩10分!

お時間が許されましたら、是非、お出かけ下さいませ!
本日のテーマは素敵な公園!愛知県民の憩いの公園です!
多分、愛知県民なら大多数の方が
1度は訪れたと思います!
 
桜淵公園は、愛知県新城市の市街地近く、豊川が深く谷を
成す辺りを中心とした公園です。その渓谷美から「三河の嵐山」との
異名を取る。4
月の「桜まつり」、8
月の「新城納涼花火大会」では多くの人で
賑わうそうです。その名の通りの名所であり、春には満開の桜を
見に観光客が訪れるそうです。公園内には歩行者専用橋「笠岩橋」
がかかっています。芝生広場には釜屋建民家も建てられ、江戸から
明治時代の人々の暮らしがわかります。青年の家には、
旗頭山の積石塚古墳が復元されています。

元々は「笠岩」と呼ばれるこの場所が桜淵と呼ばれるようになったのは、
寛文2
1662
)年に新城城主菅沼定実が、この美しい景観に目をつけ、
遊歩の地にしようと桜を植えさせたことに始まります。その後、サクラ・
ツツジ・モミジの植樹は年とともに増し、今では「三河の嵐山」と称される
桜の名所となりました。その名前が示すとおり、桜と淵をもつ景勝地で、
桜の名所は全国各地にありますが、このような渓谷美を兼ね備えた名所は
あまりありません。春は桜が清流の両岸に爛漫と咲き乱れ、夏の緑、
秋の紅葉が調和して、四季それぞれの風情を満喫させてくれます。
毎年、お花見や川遊びなどで、沢山の人が訪れます。またこの渓谷は、
地盤隆起によって豊川河谷が一段と深く掘り下げられ、段丘は変化に富み、
清らかな水をたたえています。「蜂の巣岩」と呼ばれる巨岩をはじめ、
鍾乳洞、石門などが断崖を形づくっています。

アクセスは〜電車の場合はJR飯田線新城駅もしくは
東新町駅から徒歩。

お車の場合は東名豊川ICをおりて、国道151号線を新城市内(北)へ向かいます。
 結構渋滞しているので、早めに県道69号線に迂回したほうがいいようです。

 

| star-nagoya2 | 07:19 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
1つの地域をご紹介いたします。

私共、スターナゴヤHPをご覧下さり、
重ねて御礼申し上げます。以前スターナゴヤにご宿泊頂いたお客様!
又、初めてスターナゴヤにご宿泊頂けるお客様、
毎日、愛知県下や名古屋市内に繋がる何かをテーマに選び
ブログを更新しております。
少しでも名古屋の雰囲気や認識を感じて頂ければ幸いで御座います。
本日のテーマは名古屋市内の区です。名古屋市は現在16の区に分かれています。
名古屋市が誕生して、それぞれが合併して16の区になりました。その中、1つの地域をご紹介いたします。

伏見とは、愛知県名古屋市中区錦にある一地域です。スターナゴヤからは
地下鉄東山線、乗り換えなし20分ぐらいの距離です!
元々伏見町と呼ばれていましたが、現在の地区名には残っていません。
駅周辺部はオフィス街となっており、かつて旧東海銀行本店があった
名残から金融・証券系の名古屋支店や駅北部にはアパレル商社や
繊維問屋街が立地しています。

また地下鉄東山線栄・藤が丘方面ホームの栄方先端部の改札より
線路に沿って地下街(伏見地下街)が伸びています。この地下街は
開業当初そのままの雰囲気を残しており、長者町繊維問屋街が
直上に位置する場所柄、時価より安い衣料を扱う店も多いそうです。
また、昭和30〜40年代の面影を残す喫茶店や理髪店、他にも開業当時の
店舗を利用した種々の商店が存在します。地下街の終点から地上に
上がれば栄駅との中間点辺りに出ます。


 
伏見に有る施設は・・・
白川公園。名古屋市科学館。名古屋市美術館。御園座。でんきの科学館
(電気文化会館)三井住友海上しらかわホール。名古屋観光ホテル。
ヒルトン名古屋。名古屋クラウンホテル。朝日新聞社名古屋本社。
読売新聞中部支社。新名古屋ミュージカル劇場。名古屋商工会議所。
日本銀行名古屋支店。名古屋市消防局中消防署。伏見地下街。
名古屋インターシティ。
NTTデータ伏見ビル。

最寄り駅は、地下鉄伏見駅。

 

| star-nagoya2 | 07:01 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
本日は○○○の初めてです。

何か話題を見つけ、調べ、

毎日、工夫を凝らし、テーマを毎日決め、更新しております。

本日は石鹸の初めてです。

過去の出来事を改めて、詳しく、調べてみました。

知っていたようですが、
意外に知らなかったことも御座います。

楽しんで頂ければと思っております!!
 

  • < >日本には戦国時代末期か安土桃山時代にスペイン人かポルトガル人により伝えられたと推測されているそうです。最古の確かな文献は、1596年(慶長元年8月)、石田三成が博多の豪商神屋宗湛に送ったシャボンの礼状です。最初に石鹸を製造したのは、江戸時代の蘭学者宇田川棒斎・宇田川榕菴で、1824年(文政7年)のことだそうです。ただしこれは医薬品としてであったそうです。最初に洗濯用石鹸を商業レベルで製造したのは、横浜磯子の堤磯右衛門だそうです。堤磯右衛門石鹸製造所は1873年(明治6年)3月、横浜三吉町四丁目(現:南区万世町2丁目25番地付近)で日本最初の石鹸製造所を創業、同年7月洗濯石鹸、翌年には化粧石鹸の製造に成功しました。1877年(明治10年)、第1回内国勧業博覧会で花紋賞を受賞。その後、香港・上海へも輸出され、明治10年代の前半に石鹸製造事業は最盛期を迎えました。1890年(明治23年)、時事新報主催の優良国産石鹸の大衆投票で第1位になったそうですが、全国的な不況のなかで経営規模を縮小しました。翌年創業者の磯右衛門が死去。その2年後の1893年(明治26年)、廃業しました。彼の門下が花王、資生堂などで製造を続けたそうです。日本では、お中元・お歳暮など礼儀上の贈り物として定番商品ですが、文化圏によっては身だしなみが悪い、体臭が気になるという忠告・当てこすりの意味に取られる場合があり、配慮が必要だそうです。箪笥に石鹸を入れ衣類への移り香を楽しむ習慣は、芳香剤が普及するまでは石鹸が身近な香料だった事に由来するそうです。現代では、石鹸自体(脂肪酸)の匂いも対象となっています。受験生に贈ると縁起が悪い(滑る、落ちる)としたり、その逆に厄落としに意味づけるなどの若者文化がありました。学校などで石鹸を網袋に入れて蛇口に吊すことが広く行われていましたが、
    カラスが食べてしまうため少なくなったそうです。

石鹸とは・・・・?一般に汚れ落としの洗浄剤を指し、より化学的には高級脂肪酸の塩の総称です。工業的に動植物の油脂から製造され、特に純石鹸と呼ぶ場合は、脂肪酸ナトリウムや脂肪酸カリウムだけで、添加物を含まない石鹸を指すが、多くは炭酸塩や香料などの添加物を含みます。界面活性剤であり、油や油を含む汚れを水に分散させる作用により洗浄能力を持つ。また、細菌の細胞膜やウイルスのエンベロープを破壊するため、一部の病原体に対して消毒効果を発揮します。水を溶媒として溶かして使用しますが、水なしで使えるよう工夫されたドライシャンプーが介護や災害時に使われているほか、宇宙ステーションでも使用されているそうです。

日本には戦国時代末期か安土桃山時代にスペイン人かポルトガル人により伝えられたと
推測されているそうです。最古の確かな文献は、1596年(慶長元年8月)、
石田三成が博多の豪商神屋宗湛に送ったシャボンの礼状です。最初に石鹸を製造したのは、
江戸時代の蘭学者宇田川棒斎・宇田川榕菴で、
1824年(文政7年)のことだそうです。
ただしこれは医薬品としてであったそうです。


最初に洗濯用石鹸を商業レベルで
製造したのは、横浜磯子の堤磯右衛門だそうです。堤磯右衛門石鹸製造所は
1873
(明治
6年)3月、横浜三吉町四丁目(現:南区万世町2丁目25番地付近)で日本最初の
石鹸製造所を創業、同年
7月洗濯石鹸、翌年には化粧石鹸の製造に成功しました。
1877年(明治10年)、第1回内国勧業博覧会で花紋賞を受賞。その後、香港・上海へも
輸出され、明治
10年代の前半に石鹸製造事業は最盛期を迎えました。1890
(明治
23年)、時事新報主催の優良国産石鹸の大衆投票で第1位になったそうですが、
全国的な不況のなかで経営規模を縮小しました。翌年創業者の磯右衛門が死去。
その
2年後の1893年(明治26年)、廃業しました。彼の門下が花王、資生堂などで
製造を続けたそうです。
日本では、お中元・お歳暮など礼儀上の贈り物として
定番商品ですが、文化圏によっては身だしなみが悪い、体臭が気になるという忠告・
当てこすりの意味に取られる場合があり、配慮が必要だそうです。
箪笥に石鹸を入れ衣類への移り香を楽しむ習慣は、芳香剤が普及するまでは
石鹸が身近な香料だった事に由来するそうです。現代では、石鹸自体
(脂肪酸)の匂いも対象となっています。受験生に贈ると縁起が悪い
(滑る、落ちる)としたり、その逆に厄落としに意味づけるなどの若者
文化がありました。学校などで石鹸を網袋に入れて蛇口に
吊すことが広く行われていましたが、

カラスが食べてしまうため少なくなったそうです。

石鹸とは・・・・?一般に汚れ落としの洗浄剤を指し、より化学的には
高級脂肪酸の塩の総称です。工業的に動植物の油脂から製造され、
特に純石鹸と呼ぶ場合は、脂肪酸ナトリウムや脂肪酸カリウムだけで、
添加物を含まない石鹸を指すが、多くは炭酸塩や香料などの添加物を
含みます。界面活性剤であり、油や油を含む汚れを水に分散させる作用により
洗浄能力を持つ。また、細菌の細胞膜やウイルスのエンベロープを破壊するため、
一部の病原体に対して消毒効果を発揮します。水を溶媒として溶かして使用しますが、
水なしで使えるよう工夫されたドライシャンプーが介護や災害時に使われているほか、
宇宙ステーションでも使用されているそうです。


 

| star-nagoya2 | 07:18 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
活躍した歴史的人物について調べてみました。

スターナゴヤのHPをご覧下さり、感謝申し上げます。
本日のテーマは
愛知県で生まれ、戦国時代や江戸時代、
活躍した歴史的人物について調べてみました。
戦国時代の歴史に残る女性はさほど多くは無いと思います。
(へ〜!そうなんだ!)と感じて頂ければ、嬉しく思います。
皆様の毎日がよき日ばかりでありますように、
心からお祈り申し上げます
 
愛知県生まれです!!!!
前田利家の正室まつ、芳春院天文16年7月9日(1547年7月25日)とは・・・・?
元和3年7月16日(1617年8月17日))は、戦国時代から江戸時代初期に
かけての女性。加賀国(石川県)の戦国大名・前田利家の正室。名はまつ
篠原一計の子。戒名は芳春院殿花巖宗富大禅宗定尼。母が利家の母の姉で
あるため、利家とは従兄妹関係にあたる。学問や武芸に通じた女性であった。
天文16年(1547年)、 尾張国海東郡(現在の愛知県あま市)に篠原家の
娘として生まれる。
29女を産む。なお、女性1人が産む子供の数が
多かったとされる戦国時代にあっても
11人の実子がいる女性は稀有であり、
記録が残る限りでは、伊達晴宗の正室久保姫と並んで最も数が多い。
天正
11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家方に与した利家が敗走した際、
越前府中で羽柴秀吉に会って和議を講じて利家の危機を救った。
また、天正
12年(1584年)、佐々成政に末森城を強襲された際には、
蓄財に努めていた利家に対し「金銀を召し連れて槍を突かせたら」と
皮肉って鼓舞した。慶長
4年(1599年)に利家が病死すると出家し、芳春院と号する
。慶長
5年(1600年)、前田家に徳川家康から謀反の嫌疑がかけられた際には、
交戦を主張する利長を宥め、それを解消させるため自ら人質となって江戸に下り、

14年間をそこで過ごした。この間、関ヶ原の戦いで西軍についた次男・前田利政の赦免や、
養育していた利孝の大名取り立てを江戸幕府に直訴するなど前田家のために
奔走する。ところが、利政の赦免の約束は土壇場で反故にされ、ショックから
重体となり、幕府の命により伊勢・京で保養。しかし、金沢へは立ち寄りすら
認められなかった。なお、後に江戸幕藩体制において諸大名妻子の江戸居住制が
確立するが、芳春院はその第一号となる。慶長
19年(1614年)に利長が死去し、
ようやく金沢へ帰国。元和
3年(1617年)に金沢城内で死去、享年71
墓所は金沢市の野田山墓地、京都市北区の大徳寺芳春院(分骨)。豊臣秀吉の
正室高台院(ねね、おね、北政所)とは懇意の間柄であったことで知られる。


安土城城下に住んでいた頃は、屋敷の塀を隔てた隣同士に秀吉夫婦が
住んでおり、ねねとまつは毎日のようにどちらかの屋敷で話し込んでいたという。
秀吉の母・なか
[大政所]とも懇意の仲であり、なかの畑の手伝いをしたり、
なかが栽培した野菜をまつに自ら届けたりもしたという。子供のいない
秀吉夫妻のために、豪姫を養女にさせた。利家が賤ヶ岳の戦いにおいて
柴田勝家方について敗れると、秀吉と和議を持つため越前府中において会談し、
和睦を許される。蒲生
氏郷の死後、蒲生家跡目相続について、
利家が秀吉に氏郷の子にするよう話を進め了承されていた。
これが石田光成の申し立てにより反故になり、怒った利家が大
阪城への出仕を拒否したため秀吉と不仲となった。これを見かねた、
まつが北政所の元に赴き、利家との約束の履行を求めた結果、
鶴千代の跡目相続が決着した。利家が豊臣秀頼の傳役となったことから、
秀吉から化粧領を拝領し醍醐の花見でも秀吉の妻妾と共に列席するなど、
一家臣の妻としては異例の扱いを受けている。この花見での松の丸殿と
淀殿の席次争いの仲裁はまつの聡明さを示した逸話の一つとされる。


醍醐の花見とは・・・・?慶長3年3月15日(1598年4月20日)に
豊臣秀吉が京都の醍醐寺において、豊臣秀頼、北政所、淀殿ら
近親の者を初めとして、諸大名からその配下の者など約1300名を従えて
盛大に催した花見の宴である。その日の輿の順も記録に残されており、
1番目に北政所、2番目に淀殿、3番目に松の丸殿、4番目に三の丸殿、
5番目に加賀殿、その後に側室ではないものの長くつき合いのあるまつ(前田利家正室)が続いた。
宴会の席では、正室である北政所の次に杯を受けるのを淀殿と松の丸殿が争い、
まつがその場をうまく取りおさめたという話が伝わっている。
この花見で詠まれた和歌の短冊は今も三宝院に保管されている。
 
 

| star-nagoya2 | 07:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
春の新緑、秋の紅葉時の美しさには定評があり・・・

 

お早う御座います。

皆様、毎日いかがお過ごしでしょうか?

本日はスターナゴヤ、ブログをご覧頂き有難う御座います。

毎日、何かをテーマに設け、

皆様にお届けいたしております。

又、名古屋市内だけでなく、
近隣の都道府県、電車や車で数時間範囲の

名所をご紹介致します。

本日のテーマは、自然のとても素敵な名所です。

 

平湯大滝

 

春の新緑、秋の紅葉時の美しさには定評があり、冬の凍結時は
壮厳とさえいわれます。毎年2月になると結氷まつりが開催され
大勢の観光客で賑わいます。その美しい自然を眺める公園内では、
巨大な足湯やそば打ちなどが体験できる施設も併設しています。 

平湯大滝は、岐阜県高山市奥飛騨温泉郷平湯(旧吉城郡上宝村)に
ある滝。落差64m、幅約6m。「日本の滝百選」、「岐阜県の名水50選」に
選ばれている名瀑です。紅葉の名所であり、奥飛騨温泉郷の紅葉は、
飛騨・美濃紅葉三十三選にも選ばれています。
また、冬季の厳冬期には氷結し、毎年2月には
氷結した滝がライトアップされ、「平湯大滝結氷まつり」が開催される。
戦国時代、武田信玄の家臣山県昌景軍が飛騨攻めの最中、
峠超えの疲労と硫黄岳の毒ガスにより疲弊し、平湯大滝付近で
動けなくなってしまう。その時、一匹の白猿によって教えられた
温泉につかって疲労を回復したという伝説があるそうです。
この温泉が平湯温泉である。平湯大滝は、高原川(神通川の支流)の
上流、大滝川にあります。

アクセス〜車の場合は〜名古屋から
東海北陸自動車道・飛騨清見IC〜中部縦貫道・高山ICより国道158号線・・・約3時間

 

電車の場合は〜JR名古屋駅
(高山本線 ワイドビューひだ/約2時間10分)

 高山駅(濃飛バス/約1時間30分)平湯バスターミナルより徒歩約15

 

バスの場合は〜・名古屋から名鉄バスターミナルより高速バス・・・約4時間

 

| star-nagoya2 | 07:17 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
本日のテーマは名古屋のメ道路です!

ホテルの情報だけでなく、
何かをテーマに見つけ、取り上げております。
決して有名では御座いませんが、何か由来ある何かや、
普段、普段何気になっていた何かや、
聞いたことが有るような何かをテーマに選んでお届けいたします。

ご覧頂き、(へ〜!そうなんだ!)と感じて頂ければ、嬉しく思います。
スターナゴヤはどこへ移動するのもとても便利です!
本日のテーマは名古屋のメ道路です!

飯田街道とは、徳川家康によって作られた、尾張名古屋と信州飯田を
結んでいる街道。現在の国道153号(
愛知県名古屋市〜豊
田市〜名古屋言い出し〜往なし〜塩尻市は、ほぼ旧道を走る。関
所のわずらわしさがなかったので、関所逃れの旅人も多かったそうです。

信州との交易が盛んに行われ、信州からはタバコや木地腕などが、
名古屋からは干魚や瀬戸物が運ばれました。また、街道沿いには見どころも多く、
八事方面から興正寺、隼人池、川原神社、伊勝八幡宮をはじめ桑山美術館、
マンドリン博物館もある。街道の名残りともいえる馬頭観音や鍛冶屋、お
地蔵さん、古くは城跡などもあったりして興味はつきません。


飯田街道「現在の国道153号線」は、愛知県名古屋市と長野県塩尻市を結ぶ道路である。
総延長は213.3km
で、比較的長距離を結ぶ広域道路と言ったとことでしょうか・・・?
山間部を走る区間が長く、経由地は町村が中心だそうです。この道はかつて
中馬街道、あるいは善光寺街道などと呼ばれたコースをなぞりながら延びていきます。
もともとは戦国時代に、武田信玄が信濃と三河を結ぶ軍事上の必要性から整備し、
以降発展した道だそうです。江戸時代には、中山道の脇往還としても利用されました。
中山道は大名行列や日光例幣使、朝鮮信使などの「御通行」があり、庶民はそれを
避けて中馬街道を利用する事が多かった。今風に言えば、要人の通行が日常的で
検問や規制が多い幹線道路を嫌って、脇道に逃げた感じかもしれません。
なお、この道は「塩の道」とも言われ、海に面した名古屋のあたりから三河、
そして信濃の山間部まで塩が運ばれていったことに由来するそうです。終点塩尻の
名前の由来も、塩の道の終わりというところから来ていると言う説もあるそうです。

「中馬」とは馬による輸送機関のことで、賃馬・中継馬が転じて中馬になったと言われるそうです。
「中継馬」とは言っても、荷物が各駅ごとに馬の背から馬の背へとリレーされていく伝馬制とは違い、
中馬の場合はスタートからゴールまで、一頭の馬が同じ荷物を運んでいあったんだそうです。
幾度も同じコースを行き来するだけあって、中馬の馬たちは自分の歩くべきコースを
知っており、馬子が道中で道草を食っていても馬だけが先行し、特定地点で後から
やってくる馬子を待っていたなどと言う話もあったそうです。
のんびりしているといえばのんびりしていたのかもしれません・・・?


 明治時代になると、愛知県側では県道飯田街道、長野県側では三州街道と
呼ばれるようになったそうです。昭和28
年には2
級国道名古屋塩尻線に変わり、
昭和40年に現在の一般国道153号線となったそうです。 
飯田街道の起点は、名古屋市発で塩尻市を経由し、
長野市に至る19号線との交点・小川交差点だそうです

 
 

| star-nagoya2 | 07:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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